ハイアット リージェンシー 京都は豊かな自然と古の伝統を今に伝える東山七条に位置しています。この地域は後白河法皇と豊臣秀吉を中心とするかつての政治・文化の中心であり、今でもその歴史の面影を色濃く残しています。
東山七条の歴史は平安時代に遡ります。平安京は、華やかな王朝文化の舞台であるとともに、成熟した都市において庶民たちが生活の基盤を固めていった時代でもあります。桓武天皇が築いた平安京は鴨川の西までで初期の人口は7万〜10万人程度と言われていますが、400年の時を経て隆盛を極めた都は、人口が十数万人に達したと考えられ、やがて町の中心は平安京の東部へと移行していきました。そして現代と同じように、都市の発展に伴い周辺地域に衛星都市を拡大し、その姿を変えていったのです。
その中でも最大級の都市だったといえるのが後白河法皇が統治していた法住寺殿で、ハイアット
リージェンシー 京都はこの広大な院御所の跡地の一角に所在しています。
法住寺殿は、後白河法皇が東山の山麓に建立した御所です。三十三間堂の通称で知られる蓮華王院は後白河法皇が平清盛に命じてこの法住寺殿に付属して創建した寺院でした。後白河法皇は、1192年に崩御した後、法住寺殿の一角に立てられた法華堂に葬られました。この後白河天皇陵は、ハイアット
リージェンシー 京都の南側に現在もその面影を留めています。法住寺殿にはこの他、現在の新熊野神社付近の敷地に広がる広大な苑池や風光明媚な庭園、後白河法皇が寵愛した建春門院平滋子<しげこ>(清盛の妻時子の妹)の御陵なども営まれていました。また同敷地内からは豪華な鎧や副葬品とともに埋葬された高位な武将の墓が発掘されています。
東山七条周辺の地域は豊臣秀吉が晩年に特別な思いを抱いた地でもあります。天下統一を果たした豊臣秀吉は、1598年に伏見城で63歳の生涯を閉じます。その後、遺体は遺言により七条通から真東にそびえる阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、その霊は豊国大明神として奉られました。三代将軍家光の時代に徳川幕府によって破却されますが、明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社と豊国廟は再興されました。
七条通と東大路通りの角から東へと向かう坂道は京都女子学園の学生たちで賑わい、通称「女坂」と呼ばれています。智積院や妙法院に囲まれた約300メートルの道中をたどり、長い石段を経て豊国廟へ登ることができます。